2005/03/22
「未来への想いを胸に」(君が望む永遠)(涼宮遙、速瀬水月、涼宮茜)
「おめでとう!」
声高らかに飲み物の入ったグラスを掲げる水月。
は、恥ずかしいよぉ~。
でも、せっかく水月がお祝いしてくれるんだから。
周りの人の視線が気になってたけど、それ以上に水月の気持ちが
嬉しかったから。
「ありがとう、水月」
私もグラスを掲げて、水月のグラスにコツンと挨拶をした。
ここは、柊町のどこかにある喫茶店。
今日は3月22日。
白陵柊に通うようになってから、2回目の私の誕生日だった。
「しかし遙も17歳か~、早いもんだね」
お誕生日用のケーキを切り分けながら水月が言う。
「……な、何が早いのかよくわからないんだけど……」
私は水月が取ってくれたケーキを受け取る。
水月は私の問いかけには答えずに、自分用に少し大きめに切り取った
ケーキを頬張った。
「うん♪ このケーキおいしい~。遙も早く食べてみなよ」
水月が本当においしそうに言うので、私も食べてみることにした。
フォークで一口サイズに切り取って、口の中へ入れる。
あ、ほんとにおいしい。
「でしょ? この店にしてよかったねぇ」
今日は私の誕生日ということで、お祝いをしてくれるという水月に連れられて、
この喫茶店にやってきた。
喫茶店なんだけどケーキの味は絶品、という水月の話だったので来てみた
わけなんだけど、正解だったかな。
でも、よかったと言いつつも、水月は何か落ち着かない様子。???
「どうか、したの?」
「え、何が?」
水月は何のこと?って目で私を見つめる。
「何か気にしてるみたいだから……」
水月は少し微妙な表情を浮かべている。
「あ~、まあ、なんてゆーか、遙をびっくりさせようと思ってたからさ~。うまくいって
よかったかなって」
「それは、確かにびっくりしたけど」
何か水月は隠してるような、そんな感じだったけど、私は気にしないことにした。
だって、水月がお祝いしてくれてるのは事実なんだから。
カランコロン♪
おいしいケーキに舌鼓を打っていると、カウベルの音とともにドアが開いた。
中に入ってきたのは私も水月もよく知っている子だった。
その子に気づいた水月は、先生にイタズラが見つかった小学生のような
表情を浮かべた。
「えへへ。こんにちは、水月先輩♪」
その子は嬉しそうに言うと、私の隣に腰掛けた。
「あ、茜よくわかったわね……」
水月はすごくがっかりしている。
「それはわかりますよ~。大好きな水月先輩のいるところなら、たとえ火の中
水の中。それに、今日はお姉ちゃんの誕生日なんだもん。水月先輩が行き
そうなところは絞りやすかったです」
にこにこしながら茜が答えた。
この子は涼宮茜。私、涼宮遙の3つ違いの妹だ。
「でも、どうして水月は残念そうな顔してるの? 茜にみつかったらまずいことでも
あったの?」
水月はしばらくうなだれていたが、アイスティーをごくごくと一気飲みすると
ようやく落ち着いたのか、話してくれた。
曰く、茜とのちょっとした賭けに負けてしまったために、今度会った時に何でも
好きな物をおごらされる、ということだったみたい。
「よりによって今日なんだ……。遙のためにいつもよりちょっとクオリティの高い
お店にしたのがマズかったかなあ」
え、どういうこと?
「おいし~い♪ ほんとにここのケーキおいしいですね、水月先輩♪」
いつのまにか、茜はケーキを注文していて、それを食べていた。
「だってさ、このお店のケーキは有名なパティシエールが作るほんとにおいしい
ケーキなの。そして、そのおいしさはどこに影響してくるかと言うと」
ようやく、水月の言おうとしていることがわかってきた。
「お金、だね」
水月は元気なく首を縦に振る。
「そ、そのとおり。確かに値段に見合った味なんだけど。3人分となると……
けっこうキツイかも」
そ、そうなんだ……。
「すいませ~ん。追加いいですか~」
茜は容赦なく追加注文をする。
「あああ……」
そしてどんどん力がなくなっていく水月。
「あ、あの、私、自分の分は自分で払うから……」
思わずそう言ったことが、逆に水月に火をつけたようだった。
「それはダメ! 今日は遙のお誕生日なのよ? 遙には喜んでもらいたいもん。
それに、茜とのことも約束だから文句は言えない。きっぱりあきらめるわ」
水月はさっぱりした顔でそう言うと、ケーキをパクパク食べ始めた。
水月のこういうところはほんとにすごいなって思う。
おいしいケーキをいっぱい食べた後の帰り道。
夕日が茜色に染まっていて、すごくきれいだ。
「でもさ、来年はこんなふうに過ごせないかもしれないから、これはこれで楽しい
思い出だよね」
サイフにかなりのダメージを受けた水月がそんなことを言った。
「どういうこと?」
問い返す私。
「だって、来年は遙に彼氏が出来てるかもしれないじゃない?」
ええっ?
「え~、お姉ちゃんに彼氏~? なんか、全然想像できないんだけど」
ううっ、すごく失礼なことを言われてる気がする。
「そんなことないわよ、茜。遙だって普通の女の子なんだから。それに、こないだ
聞いたところによると、好きな男が……」
ちょ、ちょっと水月!
「おっとこれは内緒だった。じゃあ私はこっちだから。また明日ね遙! 茜も
今度会ったときには賭けのリベンジするからね~」
水月は言いたいことだけ言うと、さっさと走っていってしまった。
茜が私の顔を覗き込んで言う。
「好きな人……いるんだ?」
「い、いませんっ」
思わずそう言ったけど、茜はにやにや笑いをやめない。
「別に隠すことないと思うけどね~」
「か、隠してなんかないですっ」
やたら過剰に反応する私がおもしろいのか、茜はにこにこしながら歩いて
いった。
彼氏、かあ。
ふと想像してしまうのは、あの人のこと。
まだお話もしたことがないけど、来年は同じクラスになれたらいいな。
そんなことを考えながら、随分先まで歩いていってしまった茜の後を追いかけた。
もう少しすれば桜の花が咲き、新しい季節がはじまる。
出会いと別れ。春はうれしいことと悲しいことが半分ずつやってくる季節。
来年は、いいことあるといいな。
未来への想いを胸に、私は明日への一歩を踏み出した。
おわり
あとがき
PCゲーム「君が望む永遠」のSSです。
ヒロインの涼宮遙の聖誕祭用です。
今年は書く予定してなかったんですが、なんとなく書いてしまいました。
未来の話はもう書かないと決めていたので、過去の話になりましたが、
なんだか微妙な感じです……。
やはり、ちゃんとプロット立てないとダメだなあ。
それでは、また次の作品で。
��005年3月22日 涼宮遙さんお誕生日♪
2004/08/28
「水面に映る月」(君が望む永遠)
「ほら! 孝之急いで!!」
「……ぜはぁ……ぜはぁ……俺は、もう、だめだ」
「バカ言ってんじゃないわよ、遅れたら一生許さないんだからねっ!」
水月と孝之は走っていた。アテネ行きの飛行機の出発時間まであと少し。
絶対に遅れるわけにはいかなかった。
茜のアテネオリンピック出場が決まった。
私の『テレビで応援するよりも直接現地で茜を応援したい』という気持ちに孝之も賛成
してくれて、ふたりでアテネへ行くことにしたのだ。
私は特に問題もなく仕事の有給休暇を取ることが出来たので苦労はなかったのだが、孝
之は大変だった。
ちょうど大きなプロジェクトが立ち上がりはじめたところで、毎日のように会議の連続。
必死の頼み込みで何とか休みはもらえたものの、課のみんなにはアテネのおみやげを要
求されたらしい。
おまけに、出発の前日――つまり昨日だ――まで、毎日深夜の残業。
さすがの私も、今度ばかりは同情せざるをえない。
でも。
「遅れるわけには……いかないのよっ!」
遅れがちな孝之の荷物もひったくってダッシュする。
ダッシュダッシュダーーーーッシュッッッ!!!
その勢いに押されてか、周りの人は快く私たちに道を譲ってくれた。
やっぱりこういうときは、日頃の行いがいいと得よねっ!
「……水月、女子100メートル走に出場したら、メダルも夢じゃないかもな」
孝之のその呟きは、もちろん水月の耳に届くはずもなく。
あきらめたように溜息をひとつつくと、孝之も水月の後を追うようにダッシュを開始し
た。
…………。……………………。
結局、ダッシュの甲斐あって、何とかふたりはアテネ行きの便に間に合った。
飛行機による長時間の旅を経て、水月と孝之はアテネの地に降り立った。
降り注ぐ太陽の光は、日本とアテネではかなり違うように感じられた。
「うーん、もしかして日本より暑くない?」
「もしかしなくても暑いぞ…」
孝之はすでにダウン寸前のボクサーのようにフラフラしている。
「ほら、シャキっとしなさい。だいたいアンタ、機内でぐっすり寝てたじゃない」
「それはそうだが、だからといってこの暑さに耐えられるかどうかは別物だ」
「いちいちうるさいわね。さあ、まずはホテルにチェックインしましょう」
ぶつぶつとうるさい孝之は相手にせずに、水月はさっさと歩いて行く。
ここでもあきらめたように溜息をつくと、孝之は水月の後に着いていった。
…………。……………………。
結局、ホテルに着いたのは21時を少しまわった頃だった。
ようやく部屋に辿り着いて、水月はベッドに倒れ込んだ。
「つ、疲れたあ…」
「…………」
孝之はというと、水月以上に疲れきっていて声も出ないようだ。
「い、いやぁ、まさか道を間違えるなんてね……」
「…………」
孝之の返事は、ない。
「ちょっと、さっきから黙ってるけど……怒ってるの?」
「……いや、ただ疲れてるだけ。むしろ、水月にまかせっきりにしてた俺が悪いよ」
いつになく殊勝な孝之の言葉に水月は驚き、同時になんかひどく悪いことをして
しまったような気になってきた。
「……えっと! 孝之、喉乾いてるよね。飲み物用意してあげるよ」
水月は元気を出して立ち上がると、ベッドの脇にある冷蔵庫からペットボトル入りの
水を取り出した。
「うーん、よくわかんないから水でいいか…」
冷蔵庫の中にはいろいろな飲み物が入っていたが、ラベルが日本語で書かれて
いないのでさっぱりわからない。
無難なところで『水』を選ぶのは妥当な判断だろう。
「はい、孝之」
しっかり冷やされているペットボトルを孝之に渡し、水月も同じ種類の物を手に取って
キャップを開ける。
ごくっごくっごくっ……。
「…っはぁ、おいしい…」
「ああ、身体中に染み込んでいくのがわかるって感じだな」
思いもよらず水がおいしかったおかげか、孝之も少し元気を取り戻したようだ。
ふと時計を見た孝之は、あっ、という顔をした。
「そうだ水月。準決勝はどうなったんだ?」
……あー!
孝之に言われるまで気が付かなかった。
もう『女子100メートル自由形』の準決勝は終わっているころだ。
スケジュールの都合で予選に間にあわないことはわかっていたが、準決勝には余裕で
見に行ける……はずだった。
しかし、飛行機で空港に着いたところまでは順調だったのだが、そこからホテルまでの
道程で事件は起こった。
道を、間違えたのだ。
水月はしっかりしているようで、はじめての海外ということで緊張していた。
孝之は疲れきっていて、水月の後に着いていくだけだった。
ふたつの悪い偶然が重なり、気が付いたときにはオリンピックの会場とは反対の方角に
かなり進んでしまっていた。
間違いに気づいたときは、時すでに遅し。
やっとの思いで、つい先ほどホテルに到着したというわけだった。
当然、オリンピックの結果など調べている余裕はなかった。
「えーとテレビでやってるかな……」
水月はテレビのリモコンで電源を入れ、次々にチャンネルを変えていく。
当たり前のようだが日本語のニュース番組はないので、画像を見て判断する。
「あ! これかな?」
何度かチャンネルを変えていると、水泳の画面が映った。ちょうど女子100メートルの
結果が放送されているようで、順位表がテレビ画面に表示された。
「あ……」
「お、茜ちゃんトップで準決勝通過してるじゃん!やったな、水月!!」
「うん……」
「どうか、したのか」
茜がトップで準決勝を通過しているのに、水月の表情は晴れない。
それはタイムのせいだった。
2位の選手とのタイム差の事じゃない。茜自身のベストタイムから見ると、かなり悪い
タイムだったのだ。
「そう言われてみるとそうかもしれないが、トップなんだからそんなに悲観的になることは
ないんじゃないか」
孝之の言葉にも一理ある。
しかし。不安は拭い切れない。
それは、かつて水泳選手だった水月だから、感じることなのかもしれなかった。
「ちょっと散歩、してくる」
「……俺も行く」
理由は何も聞かずに、孝之は立ち上がった。
「うん」
水月はうれしそうに頷いて、ゆっくりと歩き出した。
エレベーターで地上に降りて、中庭に向かって歩いて行く。
中庭には大きい人工の池があり、水月は池のそばまで近づいた。
池の水面には、ぽっかりと丸い月。それはゆらゆらと揺れ動き、まるで心の不安定さを
示しているかのようだった。
「私、不安なときはよくこうやって月を見てた。水面に映る月を」
ぼそりと独り言を話すかのように、水月は語りだした。
「明鏡止水っていうのかな。こうやって揺れる月を見ていると、だんだんと心が静かに、
透き通っていくような気持ちになるの。夜のプール、誰もいない静かなプールでぼんやり
月を見ていたっけ……」
それきり、水月は無言で月を見つめる。
孝之もそれに習うように月を見つめていた。
その光景は、まるで神さまに祈りをささげるかのように。
静かに、静かに、ふたりは月を見つめていた。
茜、明日は思いっきり泳ぎなさい。
水月は、心の中でそっと呟いた。
あとがき
PCゲーム「君が望む永遠」のSSです。
ヒロインの速瀬水月の聖誕祭後夜祭用&水橋かおりさん聖誕記念も兼ねてます。
実はこのお話、もうちょっとだけ続きます(笑)。
この後の「茜オリンピック決勝編(仮)」と「オリンピックの後(仮)」の2場面分は少なくとも
書きたいと思います。
なんだか、予定より長くなってきました。
できるだけ早く、続きを書きたいですね。
それでは、また次の作品で。
��004年8月28日 水橋かおりさんのお誕生日♪
2004/08/27
「決心」(君が望む永遠)
空はとてもきれいな青色。雲はひとつもなく、済みきっていた。
「今日は洗濯物がよく乾きそうだわ」
洗ったばかりの洗濯物を丁寧に干しながら、水月は呟いた。
天気がいいからだろうか。その声はとても弾んでいた。
「よしっ、これでラストね」
最後の洗濯物を干し終えた水月は、額ににじんだ汗を手でぬぐった。
まだ夏と言うには早い時期だが、気温はすでに夏そのもの。
プールで思う存分泳ぎたいな…と思うのは、ごく自然な考えだと言える。
でも、たとえプールに行っても、昔のように泳ぐことはもう、ないんだ。
そう考えると、少し寂しい気持ちになる。
「でも、これは私が選んだことだから」
しっかりとした口調で自分に言い聞かせるように、水月は呟いた。
「さってと! 買い物に行こうかな」
少し沈んだ気分を打ち消すかのように、水月は鏡に向かって自分のトレードマークとも
いえるポニーテールを結い直した。
じりじりじり。
そんな音が聞こえそうな陽射しの中を、両手いっぱいに荷物を持って歩く。
「あ、つぅ~……」
太陽で熱せられた地面からは、ゆらゆらと陽炎が立ち上っている。
途中、喫茶店で涼んでいこうかと思う誘惑を振り切って、水月はようやく自分の部屋に
辿り着いた。
「はー、汗でベトベトだよ。シャワーシャワーっと」
部屋のエアコンのスイッチを入れて、水月はシャワーを浴びにバスルームに入った。
数分後、茹だっていた頭も冷水シャワーのおかげですっきり。部屋もエアコンのおかげ
で快適な温度になっていてさわやか。
バスタオル一枚を身に着けただけの水月は、冷蔵庫からキンキンに冷えた飲み物を取り
出して、ごくごくっと一息に飲み干した。
「あ~もうっ、さいっこう!」
先ほどまでのぐったり感はどこへやら。すっかり元気を取り戻した水月は、買ってきた
荷物の整理を開始する。
食料品を最優先で冷蔵庫へ片付けた後は、日用品をそれぞれの場所へ。
あらかた片付けが終わって残ったのは、何種類あるだろうか、たくさんのスポーツ新聞
だった。
「思わず全種類買っちゃったよ。まあ、孝之も読みたいだろうし、いいよね?」
適当にひとつ取ってみる。まず最初に飛び込んできた見出しには、こう書いてあった。
『涼宮、アテネオリンピック代表決定!!』
別の新聞には、
『涼宮茜、金メダル確実か?』
といったように、どの新聞も茜のことでいっぱいだった。
「すごいよね、ほんと……」
中学の頃は結構やるかな? ってぐらいだったけど、白陵に入ってからも茜はずっと水
泳を続けていたらしい。その努力もあって、ぐんぐん実力をつけて、白陵卒業と同時にア
メリカにスポーツ留学。
日本とは比べ物にならないくらいの良い環境、良い指導者に恵まれて、さらにレベルアッ
プ。
ここ数年、いろいろな国際大会に出場しては良い成績を納め、今回晴れて、アテネオリ
ンピックの代表に選ばれたのだ。
「それも私とおんなじ、100メートルの自由型だもんなあ」
私が目標にしていたオリンピック。そして、果たせなかった夢……。
私の代わりに、茜が夢をかなえてくれる。
そう考えてしまうのは私の自分勝手な思い込みなのかもしれないけど、茜にはがんばっ
てほしいと思う。
ひとつひとつの新聞を、時間をかけて丁寧に読んでいく。
新聞に写っている写真の茜は、あの頃よりも凛々しさが増して、可愛さが増して、とて
も素敵だった。
もう、何年茜に会っていないだろう?
私から会いに行く勇気は持てなくて、今日までずるずると来てしまっている。
時間は、痛みや悲しみを癒してくれるのかもしれないけど、最後の1歩は自分で踏み出
さないとどうにもならない。こればっかりは誰かに背中を押してもらうわけにはいかない
から。
熱心に新聞の記事を読んでいると、ふとある記事に目が止まった。
「……あ……あかねぇ……」
ぽたっ
新聞の上に水滴が落ちた。
それは、水月の目からこぼれ落ちた涙の滴だった。
『――私に水泳のすばらしさを教えてくれた先輩がいたんです。
私は、その人に追いつこうと、追い越そうとずっと努力してきました。
今回の結果はそのおかげだと思っています。
今でもその先輩は私の人生の目標です。
たぶん私は、今でもその人の背中を追いかけて、泳いでいるんだと思います……』
孝之が帰ってきた。
孝之も新聞を探してあちこちまわったみたいだったけど、やはり手に入らなかったよう
だ。
私が買ってきた新聞を読むと、孝之も目を潤ませていた。
「そうだよ、水月――これ……」
そう言うと孝之は突然、手に持っていた紙袋を私に向かって放り投げた。
「え?……なに……?」
困惑しながら、私は受け取った紙袋を開いてみた。中には1冊の絵本が入っていた。
『ほんとうのたからもの』
それが絵本のタイトルだった。そして、隅のほうに書かれていた作者の名前は、
『むらかみ はるか』
……はるか? …………はるか…………遙!?
「これ……もしかして」
「……ああ、多分」
頷く孝之。私はもう1度表紙に目を落とす。
遙が、描いた絵本だ。おそらく、たぶん。
茜とも会っていなかったように、遙ともあれ以来1度も会ったことはなかった。
お互いの気持ちに整理がつくまで。
そんなきれいな理由ならまだよかった。
私は、ただ遙に会うのが怖かっただけだ。
病院であんな別れ方をしたから、なんてのは都合のいい言い訳にすぎない。
遙ともう1度向き合うのが、私は怖かっただけなんだ……。
「そっか、遙……ちゃんと夢、かなえたんだ……」
私は意を決して、絵本を開いた。
…………。…………………。
ぽたっ
絵本の上に水滴が落ちた。
それは、私の目からこぼれ落ちた大粒の涙だった。
「孝之、私行くよ」
「行くって、どこに?」
「アテネ。アテネに行って、茜の応援をする。そして、茜と遙に会う」
そう、私は決心した。
私はアテネに行く。
私は、遙と茜に会いに行く。
あとがき
PCゲーム「君が望む永遠」のSSです。
ヒロインの速瀬水月の聖誕祭用です。
実はこのお話、まだ続きます。
この後の「茜オリンピック編(仮)」と「オリンピックの後(仮)」の2場面分は
少なくとも書きたいと思います。
できれば28日に続きを発表したいところではありますが、さてどうなりますやら。
それでは、また次の作品で。
��004年8月27日 速瀬水月さんのお誕生日♪
2004/07/07
「那波の夏」(水月)
水面にぼんやりと映っているのは丸い月。そう、満月だった。
空を見上げると雲はなく、星がたくさん輝き、月はくっきりと丸い。
しかし水面の月は、ちょっとしたそよ風にさえ揺らいでしまう。
そんな不安定さは、まるで、人の心のようだ、と私は思った。
ちゅんちゅんとさえずる小鳥たちの鳴き声、カーテンの隙間から差し込んでくる太陽の
光。
「朝……か」
気が付けば、朝だった。
カーテンを開けると、あざやかな入道雲が見えた。
7月になったばかりだというのに、季節はすっかり夏。
太陽がまぶしくて、日差しが強くて、風が心地よくて、星がきれいな、夏。
今年もまたこの季節がやってきた。
「あ、牧野さーん」
透矢くんの家に向って歩いていると、後ろの方から私を呼ぶ声が聞こえた。
彼女は小走りで私のそばまで来ると、にっこりと笑った。
「おはよう、花梨ちゃん。今日もいいお天気だねー」
「おはよ。天気がいいのはいいけど、暑すぎよね~」
花梨ちゃんは胸元に手で風を送り込みながら答える。
チラチラ見える胸元。覗くつもりはなかったんだけど、ふと見えてしまった。
……むー。思わず渋面になってしまう私。
そんな私の様子に気がついたのか。花梨ちゃんが私の顔を覗きこんで、
「どうかしたの?」
と尋ねてきた。
「うん。……花梨ちゃんの胸は順調に育ってるなあ、と思って。私は……もうダメなのか
なあ」
むにゅっ、と私は自分の胸を触ってみる。……むー。
「あはは……。順調なのかはさておき、牧野さんだって小さいわけじゃないでしょ?」
じーっと私の胸を見ながら花梨ちゃんが言う。
「でも、花梨ちゃんには負けてると思う……」
しょんぼりする私を見て、花梨ちゃんは急にいいことを思いついたような顔をした。
「ん? どうしたの、花梨ちゃん。……なんかすごく嬉しそうなんだけど」
それに、そのわきわきと動かしている手がすごーく気になるんですけど。
「いやあ、よく言うじゃない。胸は揉まれるとおっきくなるって」
じりじりと近づく花梨ちゃん。同じように、じりじり後ずさる私。
「どうして離れるのかなー? 痛くしないからさぁ……」
そんな事言われても、困るよ。というわけで。
「じゃ、じゃあ私は先に行くね!」
と言うが早いか、私は花梨ちゃんに背を向けてダッシュ!!
「あ、待てー!」
同じく、私を追いかけてダッシュする花梨ちゃん。
朝から熾烈な逃亡劇が幕を開けたのだった……。
ガラガラガラガラ
「お、おはようございま~す……」
「暑い暑い暑いーーーー!!」
玄関の扉が開く音。
「おはようございます。那波さん、花梨さん」
しばらくすると、雪ちゃんがいつもの笑顔を携えて玄関まで来てくれた。
ここは透矢くんの家の玄関。雪ちゃんは透矢くんの家のメイドさんだ。
雪ちゃんは可愛くて、きれいで、お料理が上手で……尚且つ、胸は花梨ちゃんよりも大
きい。……むー。
「あら、どうかされましたか。那波さん?」
雪ちゃんが私たちを見て、不思議そうな顔をする。
「う、ううん。なんでもないよー」
あわてて手を振って、大丈夫さをアピールする私。
「……でも、おふたりともすごくお疲れのようですけど。息も上がってらっしゃるようで
すし。それに、花梨さんは…」
ふと隣を見ると、あれ、花梨ちゃんがいない。
「今しがた、台所の方まで歩いて行かれましたけど」
……え?
「うわっ、花梨? なんでこんなとこまで上がってきてるんだ?」
「あ、透矢おはよー。……ごくごくごく。ぷはーっ! いやね、ちょっと朝から疲れちゃっ
たから、お水でももらおうかなって」
…………。
台所のほうから、透矢くんと花梨ちゃんの話し声が聞こえてきた。
「あはは……。ごめんね、雪ちゃん」
ぺこり、と私は雪ちゃんに頭を下げた。
「いえ、那波さんが謝ることではありませんよ。それより、那波さんもお水いかがですか?
幸い今日は、まだお時間の方も余裕があるようですから」
時計を見ると、確かにいつもよりもまだまだ時間に余裕はある。私と花梨ちゃんが全速
力で透矢くんの家まで走ってきたためだ。
「そうだね。じゃあ、いただこうかな」
「はい。ではこちらへどうぞ」
雪ちゃんはにっこりと笑って、台所まで案内してくれた。
こくこくこくこく……こくん。
雪ちゃんが出してくれたお茶を飲んで、私はようやく落ち着いた。
「それにしてもさー、牧野さんがいきなり逃げ出すから悪いのよ」
すると、私がお茶を飲み終わるのを待っていたかのように、唐突に花梨ちゃんが喋りだ
した。
「だから、ついつい追っかけちゃってさー。まだ7月になったばっかなのに、何? この
暑さは。こんな暑さの中を追っかけっこしちゃったじゃない!」
雪ちゃんが注いでくれた2杯目のお茶をごくごくごくーっと一気に飲み干しながら花梨
ちゃん。
「あ、あれはほら。花梨ちゃんが……その、怖かったから」
おずおずと答える私。
「どうせ花梨がいたずらでもしようとしたんだろう?」
透矢くんがそう言ってくれた。
「いたずらって人聞きが悪いわねー」
まだ暑いのか、花梨ちゃんは胸元に手で風を送り込みながら答える。
「…げほっげほっ!」
突然、透矢くんが咳き込んだ。ちなみに、透矢くんは花梨ちゃんの正面に座っていたり
する。
…………。
どうして咳き込んだのかはとりあえず置いておいて。
「だって」
私は花梨ちゃんに反論する。
「だって、花梨ちゃんが私の胸を揉み揉みしようとするんだもん!」
ぶはーーーっっ!!
その瞬間、盛大に透矢くんは飲んでいたお茶を吹き出した。
「あらあら、大丈夫ですか」
雪ちゃんが手際よく後始末を始めた。さすが雪ちゃん、メイドの鑑。
「なによー、いいじゃない。減るもんじゃないし」
ぶーぶーと文句を言う花梨ちゃん。
「だって」
思わず私は叫んでしまっていた。
「だって、どうせなら透矢くんに揉み揉みしてほしいんだもんっっ!!!」
その瞬間、透矢くんは死にそうなまでにむせ返った。
雪ちゃんは冷静に後始末をしてから、
「あら、透矢さん。ネクタイが曲がっていますよ?」
ぐいいーー。
「あ、ちょっ……雪さん締まってる締まってるっ…」
透矢くんはちょっと苦しそうだ。
「ダメよ雪。ほら、ネクタイが曲がってるよー」
ぐぐぐいいいいーーーー。
「か、花梨。それ、ダメ……」
透矢くんはちょっと、いやかなり苦しそうだ。
「ほら、そろそろ行くよー。じゃあ雪、お茶ありがとねー。牧野さんも行くよー」
花梨ちゃんはネクタイごと透矢くんを引っ張っていった。
「あ、うーん。じゃあ雪ちゃん、お茶ごちそうさまでした。行ってきます」
「はい、行ってらっしゃいませ」
ぺこり、と雪ちゃんは笑顔を絶やさぬまま、私たちを見送ってくれた。
さすが雪ちゃん、メイドの鑑。
私は雪ちゃんに手を振って、花梨ちゃんと透矢くんの後を追った。
玄関を出ると、さっきよりも高くなった日差しが私たちを出迎えた。
「まだまだ暑くなりそうだねー」
「そうね。それじゃはりきって今日も行きましょうか!」
「その前に、ネクタイを引っ張るのをやめてもらえると助かるんだけど……」
私たちの夏は、まだ始まったばかりだった。
おわり
あとがき
PCゲーム「水月」のSSです。
ヒロインの牧野那波の聖誕祭用です。
うーん、こんな内容でいいんでしょうかね?
書いてて楽しかったと言えば楽しかったんですけど(笑)。
それでは、また次の作品で。
��004年7月7日 牧野那波さんのお誕生日♪
2004/06/20
「雨とことりと虹の空」(D.C.~ダ・カーポ~)
窓をそっと開けると、夜の空気が部屋の中に入り込んできた。
ここ数日、昼間はとってもいいお天気で、思わず溜め息をついてしまいそうな青空。
だけど、夜になると昼間の暑さはどこへ行ってしまったのか、6月という時期にふさわ
しいと思えるような、涼しく過ごしやすい風。
と言っても、多少湿気をまとっている風なんだけどね。
空を見上げると、残念ながら真っ暗。きれいな星空が見られるとよかったんだけど、そ
れはもう少し先のことになりそう。
「しかたないかな……。梅雨の真っ最中なんだもんね」
思わず、そう呟いてしまう。
そう、6月も中盤をすぎたこの時期は毎年の事ながら梅雨に突入している時期なんです。
だから、私、白河ことりは自分の誕生日がいい天気だった思い出ってあんまりないんで
す。ほんと、しょうがないんですけど。
「それにしても……」
窓の外、1本の木を見上げて。
「本当に桜、散っちゃったんだなあ……」
緑色の葉っぱで彩られた桜の木をぼんやりと見ながら、そんなことを考えた。
それは今年の春のこと。
この初音島で、桜の花びらが散ってしまうという事件が起こった。
ごく当たり前の出来事なんだけど、初音島では大事件だった。
初音島は、どういった原因かはわからないけど、桜がいつでも咲きつづける島だったの
です。もちろん花は散るのですが、すぐまた新しい花びらが咲いて、いつの季節でも桜の
木は満開。
春はもちろん、まぶしい太陽が降り注ぐ夏も、紅葉が目に鮮やかな秋も、透き通るよう
な真っ白な雪が降る冬も、いつでも桜は私たちとともにありました。
そんな身近な桜が、これまたどういった原因かはわからないけど、散ったままになって
しまいました。
他の土地では当たり前のことに戻っただけなのに、私にとっては大事件だった。
見えないものが見えなくなる、っていう感じかな。
不安で不安で仕方なかった私。
そんな私を支えて、元気付けて、そして勇気をくれた人。
そんな素敵な人がいたから、私はきっと大丈夫。
一瞬、強い風が吹いて葉っぱが何枚か部屋に舞いこんで来た。今までだったらいやって
いうほどの桜の花びらが入ってきていたんだけど、そういう意味では楽になったかも。
「おそうじ、大変だったもんね~」
私はそのときのことを思い出して、自然に顔が微笑んだ。
開けたときと同じように、そっと窓を閉めて祈った。
「明日は、晴れるといいな……」
明日は私の誕生日。ただ晴れて欲しい、そんなささやかな願いをこめて、私は祈った。
ザー……
窓の外は、さっきからひっきりなしに雨の音が聞こえてきている。
「あ~あ、やっぱり雨が降っちゃったな……」
ゆうべの風が少し湿気があったからちょっと嫌な予感がしてたけど、案の定的中。
気分が少し落ち込んでいるところに、コンコン、とドアをノックする音。
どうぞ、と返事をすると、ドアを開けて入ってきたのは暦お姉ちゃんだった。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「ああ、実は突然さっき電話があってな、今から学園のほうに行かなければならなくなっ
てしまったんだ」
……え?
「それで、どうやら帰りは夜遅くなりそうなんだ」
「そう、なんだ。……お仕事なんだもん、しかたないよねっ。私のことは気にしなくてい
いから。お仕事がんばってきて、ねっ?」
私はお姉ちゃんに心配させないために、もうしないと決めていた作り笑いの笑顔でそう
言った。
そう、お姉ちゃんは悪くないんだから。せっかくのお誕生日、家族といっしょに過ごし
たかったけど、私がガマンすれば……すむんだから。
「そうか。……すまないな」
暦お姉ちゃんは、本当にすまなさそうな表情で一言だけそう言った。
「それでは行ってくる。あ、そうそう……」
出かける間際に、暦お姉ちゃんは何かを言いかけて固まった。
?
「どうかしたの、お姉ちゃん」
「……ん?ああ、なんでもない。じゃ、行ってきます」
暦お姉ちゃんは、一瞬すごく楽しそうに笑って、家を出ていった。
???
暦お姉ちゃんが出かけると、家の中はすっかり静かになった。
聞こえるのは、私が立てる物音と雨の音だけ。
ふいに、涙がこぼれそうになった。
私は大急ぎで部屋に戻って、ベッドにダイビングした。
…………。…………。
私はゆっくり顔を上げて、ちょっとだけ濡れた枕をごしごしと拭いた。
よし、もう大丈夫。
そのとき、ピンポーンと玄関のインターホンが鳴る音が聞こえた。
私はあわてて玄関まで行き、ドアの覗き窓からそっと相手を確認した。
「あ……」
ガチャリとドアを開けると、入ってきたその人は、なんと朝倉くんだった。
「あ、朝倉くん? どうしたの、突然」
「あーその、ことり今日誕生日だろ? だから、えーと、一緒に過ごしたいな~と思って。
……あ、もしかして何か用事でもあるのか?」
「……ううん、用事なんてないよ。ないない」
私は首をぶんぶん振って、そう答えた。
朝倉くんが、朝倉くんが来てくれた。
いやだ、なんか顔がにやけてきちゃうよぅ……。
「そっか。なら、ちょっと出かけようぜ」
そう言って、私に向って手を差し出す朝倉くん。
「それは構わないですけど、一体どこに行くんですか。外は雨が降ってると思うんですが」
朝倉くんは私の手を取ると、そっとドアを開けた。
……あれ、どうなってるの?
ドアから見えた外の風景は、いつのまにか雨が上がっていて、お日様が出ていました。
「雨なら、もうとっくにやんでるよ。ことり、もしかして寝てたんじゃないのか?」
にやにや笑って私の顔を覗きこむ朝倉くん。
……もしかして、私、ふてくされて寝ちゃってた?
かああっと顔が真っ赤になる私。そんな私を見て、ますます朝倉くんは笑った。
「よし、到着~」
朝倉くんに連れられて、私がやってきたのは桜公園。そして、その桜公園の中でも1番
お気に入りの場所、『枯れない桜』だった。
と言っても、今は枯れてるわけだけど。
二人寄り添って木にもたれかかると、朝倉くんが話し出した。
「まず最初にばらしちゃうけど、今朝、暦先生から電話がかかってきたんだ…」
朝倉くんの話をまとめると、今日の朝突然出かけることになったお姉ちゃんは、朝倉く
んのうちに電話したそうだ。私の相手をするように、とだけ言い残して。
そっか、お姉ちゃんの笑いはそういうことだったんだ……。
「もちろんことりの誕生日は知ってたわけだけど、突然の電話だったから急いでことりの
家に行かなきゃって思ってな。だから、その……」
少しためらってから朝倉くんは
「プレゼント、まだ用意してないんだ」
と言った。
その顔があまりにも真剣で、思わず私は笑ってしまった。
「いいですよ。朝倉くんからは、もうプレゼントいただきましたから」
そう、一緒にたいせつなひとと誕生日を過ごしたい。それに、お天気も晴れてくれた。
私にとっては、十分すぎるほどのプレゼントなんだから。
「ことりがそう言うのならいいんだが、でもなあ……」
私は全然気にしてないんだけど、朝倉くんは不満そうな感じ。
……そうだ。
「じゃあ、プレゼント、いただいてもいいですか?」
「ああ、いいけど。何がいい?」
私はそれには答えず、彼の首にそっと手を回して、唇を重ねた。
…………。…………。
この時間がずっと続けばいいと思うような、そんなキス。
しばらく経ってから、そっと離れる。
「えへっ、いただいちゃいました♪」
朝倉くんは優しく笑って、私の髪を撫でてくれた。
「ことり、誕生日おめでとう」
「どうもありがとうございます」
お互いにこにこと笑い合う。
ふと空を見上げると、雨上がりの空には七色の鮮やかな虹が出ていた。
「まるで、ことりのお祝いをしてくれているみたいだな」
「うんっ!」
おわり
あとがき
PCゲーム「D.C.」のSSです。
ヒロインの白河ことりの聖誕祭用です。
うーん、久しぶりすぎてなんだかうまく書けませんでした。
やっぱりゲームプレイからそろそろ2年ですから、いろいろと忘れてて(汗)。
それでは、また次の作品で。
��004年6月20日 白河ことりさんお誕生日♪
2004/05/30
「水無月の雨と雪」(水月)
ざざーん、ざざーん。
波の音。毎日のように聞いている波の音だが、決して同じものはないのだろう。
でも、毎日聞いているから。
僕は今、夢の中にいるんだって、わかっている。
ふと、視線を感じて目をそちらのほうへ向けると、そこにはひとりの少女がいた。
「ナナミ様……じゃ、ない?」
いつもの夢では、そこにいるのはナナミ様だ。
黒くてまっすぐな長い髪が幻想的で、この世の物とは思えない美しさ。
一目で心を奪われてしまったその姿。
しかし、今日は違った。
少し茶色がかった髪は肩の下ぐらいまでの長さ。キレイというよりは、可愛いといった
ほうがぴったりな雰囲気。
そして、ナナミ様との決定的な違いは。
その子は、僕を見つめて幸せそうに笑っていた……。
ざー…………。
雨の音。小さい頃から何度も何度も聞いているのに、どうしてか落ち着かない。
理由はなんだったのか。覚えていれば少しは気が楽になるのかもしれないが、あいにく
家の間取りといったどうでもいいことは覚えていても、肝心なことは覚えていない。
そう、僕、瀬能透矢は記憶喪失だったりする。
ふと目が覚めたら今までの記憶がないなんてウソみたいな話だが、事実なんだからどう
しようもない。
普通だったら記憶喪失なんてものは、いろいろと大変なんだろう。実際、いろいろと問
題はあるのだが、家での生活に関しては大丈夫だ。
なぜならうちには、雪さんがいるのだから。
こんこん。
ドアをノックする音に続いて、ひとりの女性が僕の部屋に入って来た。そして、僕の目
の前まで来て深々とお辞儀する。
「おはようございます、透矢さん。今日は……」
その人は窓の側まで行って、カーテンを開ける。
ざー…………。
雨の音。
「……あいにくの空模様ですけど、今日も1日がんばってくださいね」
にっこりと笑顔でそう言ってくれたのが、雪さんだ。
雪さん。名を、琴乃宮雪と言う。
小さい頃にうちに引き取られてから、ずっと一緒に暮らしている。
そして、今は僕専属のメイドさんということになっている。
たとえどんな理由だろうと、雪さんがそばにいてくれるなら何も問題はないと思えるほ
ど、雪さんは優秀で素敵で可愛くて、とにかく素晴らしい人だ。
「ナナミ様、ですか?」
ほかほかの湯気がのぼるごはんの茶わんを手渡してくれた雪さんは、僕の質問にきょと
んとした表情を浮かべた。
「うん。雪さんはそういうのに詳しいのかなって。以前、父さんの書斎でいろいろお話し
てくれたからさ」
雪さんが作ってくれた朝食を食べながら、ナナミ様について雪さんに聞いてみた。
「……申し訳ありません。あいにくナナミ様の伝承に関しては、雪も町の人たちと同じ程
度の知識しかないんです」
雪さんは見るからにすまなさそうに答えてくれた。
「あ、いや、別に雪さんが悪いわけじゃないんだから気にしないでよ。ただ、今朝の夢の
内容がちょっと気になっただけだから」
「夢……ナナミ様の夢をご覧になったんですか?」
小首を傾げて雪さんが聞いてくる。
「あ、そうじゃないんだけど……なんていうか、ナナミ様っぽい人が出てきたんだ」
雪さんが入れてくれた食後のお茶を飲みながら、今朝見た夢のことを振り返ってみる。
いつもの展開なら、あの場面では間違いなくナナミ様が出てくるはずなのに、今日に限っ
ては違っていた。
たかが夢なんだから気にすることでもないとは思うけど、なんとなく気になる。
だから、もしかして僕が知ってるナナミ様とは違ったナナミ様のイメージがあるのかな
と思ったんだけど……。
窓の外は雨。ざーざーと降る雨の音だけの、食後のお茶の時間は静かに過ぎてゆく。
ごくり、と最後の一口を飲み干して僕は席を立つ。
「ごちそうさまでした。今日もおいしかったよ、雪さん」
「ありがとうございます。透矢さんにそう言って頂けて、雪は幸せです」
毎朝繰り返されているやり取り。
お互い顔を見合わせて、笑い合う。
できるなら、この幸せな時間がずっと続きますように。
「ナナミ様のこと?うーん、私はあんまり詳しくないなあ」
学園に着いてから隣の席の和泉ちゃんにナナミ様のことを聞いてみると、そんな返事が
返ってきた。
「ごめんね、お役に立てなくて。でもどうしてナナミ様のことを知りたいの?」
「うん、実はね……」
「うんうん」
「…………ナイショ」
「「ええ~~」」
自分から振った話題だったけど、まさか夢に出てくる女の子が気になるから、なんて言
えないので、ナイショにさせてもらったら案の定、非難の声が。
って、あれ、ふたりぶん?
「ナイショってどういうことかなー?幼なじみの私には隠し事なんてしないよねー」
「あ、花梨ちゃん。おはよう」
「おはよう和泉。今日もいい天気ねー、ってそんなことよりも。透矢くんは何か私に言う
事があるよねー」
突然現れた花梨にびっくりしつつも、沈黙はさらによくない状況を引き起こすと敏感に
感じ取った僕は、しどろもどろになりながらも返事をする。
「か、花梨おはよう。今日は早いね。……えっと、今日はあまりいい天気じゃないような
気がす」
ぐいいーー
「いたたたた!!」
まだ喋ってる途中なのに……。
「か、花梨ちゃん!?透矢くんのほっぺたが伸びちゃうよぉ……」
「言いたいことはそれだけかなー、透矢くん?」
にこにこと満面に笑みを浮かべながら、僕のほっぺたを引っ張っているのは、幼なじみ
の宮代花梨。……ご覧の通りの性格の女の子だ。
そして花梨に引っ張られている僕のほっぺを心配してくれているのが、新城和泉ちゃん。
クラスメイトだ。
このままではナイショのことを白状するまで、花梨は僕のほっぺを離さないだろう。
しかたなく降参しようとしたその時、
キーンコーンカーンコーン
チャイムの音と共に、担任の先生が教室に入ってきた。
「ちっ、命拾いしたわね」
花梨はそんな悪役のような捨てゼリフを残して自分の席へと戻っていった。
ようやく解放されたほっぺをさすりながら安堵の溜息をついた僕を見て、和泉ちゃんは
安心したような感じでにこにこと笑っていた。
「さて、早速だが転校生を紹介する」
今日のホームルームは担任の先生のそんな突然な一言で始まった。
当然、先生以外の誰も知らされてないわけで、教室のあちこちからいろんな声があがる。
「ほらほら静かに。うるさくすると進行できないだろう」
先生がみんなを静かにさせるが、それもあまり効果がない。そりゃ、転校生なんて一大
イベントは気にならないほうがおかしいだろう。
「……よし、そろそろいいか。それでは入って来なさい」
みんなが静かになった頃合を見計らって、ようやく先生は教室の外に声をかけた。
その声に従って、教室の前の扉がすっと開いた。
そして、ひとりの女の子が静かに入ってきた。
その子をはじめて見た瞬間、僕は呼吸を忘れていた。
少し茶色がかった髪は肩の下ぐらいまでの長さ。キレイというよりは、可愛いといった
ほうがぴったりな雰囲気。
そう、間違いなく、今朝の夢で見た女の子だった……。
「ん、瀬能。どうかしたのか、急に立ち上がって」
「…………え?」
先生に言われて、僕はいつの間にか自分が立ち上がっていることに気が付いた。
みんなの視線が集まっている。そして、あの子の視線も僕に向けられている。
……途端に、恥ずかしくなった。そのせいだろうか、
「あ、す、すいません。夢に出てきた女の子にそっくりだったものですから…」
と、思わず口が滑ってしまった。
数秒後、教室は大爆笑の渦に包まれた……。
「おいおい瀬能~、それは口説き文句か? やるねー」
「瀬能くんたら、花梨ちゃんや新城さん、それに牧野さんもいるのに、まだ他の子に声を
かけようっていうの……」
みんな言いたい放題言っている、くそぅ……。
「みんな静かにしなさい。ほら、瀬能も座りなさい。そういうのは休み時間にな」
先生、フォローになってません……。
先生はとにかく彼女の紹介を進めることにしたらしく、黒板に彼女の名前を書いてゆく。
「では、自己紹介してください」
彼女は、はい、と返事をして教壇に立った。
「みなさん、はじめまして。皐月雨乃(さつき あめの)と言います。父の都合でこちら
の学園に転校して来ました。何の取り柄もありませんが、これからよろしくお願いします」
と言って、ぺこりとお辞儀する彼女は本当に可愛らしくて、男子生徒はもちろん、女子
生徒からも大きな拍手で迎えられた。
キーンコーンカーンコーン
午前中の授業の終了を告げるチャイムが鳴り響き、教室はみんなの楽しい笑い声で包ま
れる。誰もが待ち望んでいる昼休みの時間だ。
「透矢、お昼一緒に食べよ?」
「あ、あの透矢くん。私もご一緒していいかな?」
いつものように、花梨と和泉ちゃんがお弁当を持ってやってくる。もちろんオッケーな
ので、僕は近くの机を集めて3人分の席を作った。そして、カバンの中からお弁当を取り
出す。雪さんのお手製のお弁当だ。
「さすが、雪のお弁当はいつ見てもおいしそうねー」
「本当、透矢くんが羨ましいな……」
「うわー、ほんとおいしそう~」
花梨と和泉ちゃんの物欲しそうな視線。それだけならいつもの風景なんだけど、今日は
もうひとり増えていた。
「さ、皐月さん?」
突然のことに声が上擦っているのが自分でもわかる。
「うん、ごめんね。あまりにもおいしそうなお弁当だったから見とれちゃった」
そう言って笑う彼女は、やはり夢で見たように幸せそうだった。
「あ、皐月さん。よかったら一緒にお昼食べない? 和泉も透矢もいいよね」
僕には反対する理由はない。和泉ちゃんもにこにこと笑って頷いている。で、肝心の皐
月さんはというと、
「どうもありがとう。じゃ、ご一緒させていただきます」
にっこりと笑う彼女は本当に可愛かった。
「……透矢、見とれるのもいいけど、皐月さんの席を用意してからにしてよねー」
花梨の冷やかす声を聞いて、あわてて席を用意する僕だった……。
「ねえ透矢、その卵焼きと、私の卵焼き交換しよ?」
花梨が僕のお弁当をのぞきこみながらお願いする。
「卵焼きと卵焼きを交換してもしかたがないと思うんだけど……」
苦笑しながらそう言うと、
「何言ってるのよ。雪が作った卵焼きよ? 意味があるに決まってるじゃない!」
いや、そんなに力説されても困るんだけどね……。
やれやれと思いながら、卵焼きを口に運ぶ。
うん、さすが雪さんが作った卵焼きだ。おいしいおいしい。
隣では花梨が悲鳴をあげていたりするが、気にせず食事を続ける。
「あの、瀬能君のお弁当って誰が作ってるの?そんなにお料理が上手な人なら、いろいろ
教えて欲しいなあ」
食事を続けていると、こちらの様子をうかがっていたのか、皐月さんが話しかけてきた。
「皐月さんって、自分で料理作ったりするの?」
何気なく聞いてみると、
「うん、うちの事情でね。だから料理が好きってわけじゃないんだけど、少なくとも人並
みの腕前は持っているつもりなんだ~」
えへへ、という感じで皐月さんはうれしそうに微笑む。
「ん? 人並みの腕前を持っているのに、どうして料理を習いたいわけ?」
いつの間に気を取り直したのか、すでにお弁当をたいらげた花梨が皐月さんに当然の質
問を投げかけた。
その返事は、いかにも皐月さんらしい答えだった。まだ会ったばかりなのにどうしてそ
う思ったのかはわからないけど、すごく彼女らしいと思えたのだ。
皐月さん曰く、
「だって、好きな人にお料理を作ってあげるとしたら、やっぱりおいしいほうがいいじゃ
ない♪」
朝から降り続いている雨は多少は小降りになったものの、まだまだ6月の雨の勢力は衰
えそうもない。
「ふーん、じゃあ瀬能君の家には、瀬能君とお手伝いの雪さんのふたりだけなんだ」
そんな雨の中を、僕は皐月さんと一緒に歩いている。
「ひとつ屋根の下に、若い男女がふたりきり……。これは花梨ちゃんや和泉ちゃんが心配
するのも無理ないかな」
結局、僕は皐月さんのお願いを断りきれなかったのだ。思い立ったが吉日、ということ
わざが大好きなのか、皐月さんは今日から早速教わりたい、と言った。とはいえ、僕がで
きるのは皐月さんを雪さんに会わせる事だけで、その後のことは雪さんにまかせるしかな
い。
もし雪さんが嫌がるなら、僕も強制できないから……。
「でも瀬能君なら大丈夫な感じがするよね。……なんとなくだけど」
楽しそうにおしゃべりを続ける皐月さん。なんだか好き勝手なことを言われているよう
な気がするけど、不思議と嫌な感じはしなかった。
「大丈夫って何が大丈夫なの?」
「んー? だから、なんとなく。瀬能君は相手が嫌がることはしない人だと思うから」
そんなことを話しながら歩いていると、僕の家が見えて来た。
「ただいまー」
玄関の扉を開けて、家の中に呼びかける。すると、いつものように雪さんが出迎えてく
れた。
「おかえりなさいませ、透矢さん。……あら、そちらの方は?」
僕の後ろにいる皐月さんに気づいた雪さんは、ちょっと警戒した表情だ。
「ああ、クラスメイトの皐月さん。今日、転校してきたんだ。ちょっと話があるっていう
から、うちに来てもらったんだ。雪さん、悪いけどお茶を用意してくれないかな」
雪さんは僕の説明に「わかりました」と頷いてくれた。
皐月さんを居間に案内しようとしたら、くいっと服の裾を引っ張られた。
「…なに?」
皐月さんは僕の耳に顔を近づけて、小声で呟いた。
「雪さんって、すっごくきれいな人だね。……瀬能君、よくガマンしてるね?」
「…………………………」
僕は無言で居間へ歩いて行く。
僕のそんな様子を見て、楽しそうに皐月さんは笑った。
「え、雪にお料理をですか?」
「うん、ぜひ習いたいみたいなんだ。……どうかな」
突然の話に目をぱちぱちさせる雪さん。うわあ、こんな雪さんも可愛いなあ…。
「時間があるときだけでいいんです。お願いできませんか」
必死な様子の皐月さん。
「雪は……透矢さんがよろしければ、お教えするのにさしつかえはありません」
「ほんとですかっ!」
「はい。……よろしいですか、透矢さん」
と言って、僕を見つめる雪さん。そして、期待に満ちた目で僕を見つめる皐月さん。
「ああ、構わないよ」
「やったー!!」
その瞬間、皐月さんは雪さんに抱きついていた。
雪さんは最初はびっくりした顔だったが、次第に皐月さんを見つめる目が柔らかくなっ
ていった。そんな雪さんの表情は今までに見たことがないような気がして、ちょっとだけ
皐月さんに嫉妬した。
「じゃあ、毎朝のように雨乃は透矢の家に行ってるの?」
「正確には、毎朝と毎晩だね。雨ちゃんすごく熱心なんだ。どんなに忙しい時でも来るん
だよ」
その日、部活の朝練に行くという花梨に付き合って、いつもより早く家を出た。相変わ
らず降り続く6月の雨の中、花梨とふたりで歩いて行く。
皐月さんが転校してきてからあっという間に2週間が過ぎた。僕らはずっと前からの親
友のように仲良くなっていた。
「だからかな。最近の雨乃のお弁当、なんだか雪のお弁当の味付けに似てきたような感じ
がするんだもん」
どうして花梨が雨ちゃんのお弁当の味付けを知っているんだろう……。
「雨乃ったら、最近ブロックが厳しくてなかなかお弁当食べさせてくれないのよね」
人のお弁当を取るのはよくないと思うな。特に僕のお弁当の卵焼きは……。
「あの卵焼きだけはまだまだ雪の味付けには及ばないみたいだけどね。あ、そうそう卵焼
きと言えばさ、このごろ牧野さん来ないね」
牧野那波ちゃん。クラスメイトだ。黒くてまっすぐな長い髪は本当に見とれてしまうほ
どキレイで、いつも花梨に冷やかされている。
ちょうど雨ちゃんが転校してくる少し前から、牧野さんは体調を崩したとかで休んでい
るのだ。
「和泉ちゃんによると、だいぶ体調は良くなってるみたいだけど……」
どうも湿気がよくないのか、毎年のようにこの時期は休んでいる牧野さん。たぶん7月
になれば梅雨もあけてよくなると思うんだけど。
「でも、卵焼きで牧野さんを思い出すなんて、花梨らしいね」
「だって、牧野さんが卵焼きを食べている時の顔は本当に幸せそうなんだもん。ほっとく
と、それこそ卵焼きがいくつあっても足りないよねー」
事実その通りなんだけど、それで思い出される牧野さんもなんだかな。
……………………………………
ふっと、会話が途切れた。
雨の音の他には、僕らの足音が聞こえるだけ。
「……あのさ、透矢はさ」
「うん?」
「…………雨乃のこと、どう思ってるの?」
「え?」
突然の花梨の質問に、足が止まる。
ざー…………。
雨の音。
「前、言ってたよね。夢に出てきた女の子に似てるって」
沈黙している僕に、花梨は静かに問い掛ける。
その通り。雨ちゃんは、皐月雨乃は僕の夢に出てくる女の子にそっくりだ。
はじめて彼女の夢を見た日だけではなく、その後も時々彼女は夢に出てくる。何かする
わけでもなく、ただ笑っているだけだが。
そう言えば、その日以来ナナミ様の夢は全然見ていない。
何か関係があるのだろうか……。
「わかった。質問を変えるわ。……雪と雨乃はどうなのよ?」
「雪さんと雨ちゃんは、別にどうって言われても。普通に仲良しだけど」
花梨は僕をじとーっと見つめて、
「本当にそう思ってる?」
と、溜息混じりに言った。
「いいわ。何も今決めなくちゃいけないわけじゃないし。でも」
僕の前を歩いていた花梨は、くるっと振り向いて
「少しは考えておいたほうがいいんじゃない?」
と言って、歩いていった。
ざー…………。
雨の音。
花梨の足音が遠ざかって、僕はしばらくの間、その場から動けずにいた……。
「じゃあ、今日はこれぐらいにしましょうか」
「はい!」
食堂からは、すでにお馴染みとなったふたりのやりとりが聞こえている。
僕は部屋にいても特にすることがないので、こっそりと食堂の様子をのぞきに来ていた。
気づかれないようにできるだけ注意しながらそっと顔を出してみると、こちらを見てい
た雪さんと目が合った。
「透矢さん。お茶でもお入れしましょうか?」
にこにこと雪さんは笑顔だ。
「あはは…、お願いします」
見つかってしまったことをごまかすために照れ笑いを浮かべながら、僕は食堂の椅子に
腰掛けた。
「あ、じゃあ私が透矢君にお茶入れてあげるよ。雪さんも座って待っててください」
「いえ、お客様にそのようなことは……。雨乃さんこそ座って待っていてください。お疲
れでしょう?」
洗い物をしていた雨ちゃんの申し出を雪さんはやんわりと断った。
そんなことない、と言いたげな雨ちゃんにそっと耳打ちする。
「雨ちゃん。雪さんの仕事だから、取らないであげてよ」
その一言で納得してくれたのか、雨ちゃんは引き下がってくれた。
雨ちゃんを家まで送ってから戻ってくると、21時を過ぎていた。出迎えてくれた雪さ
んは少し悲しそうな顔。
「ごめんね、雪さん。雨ちゃんとお話してたらちょっと遅くなっちゃった」
「いえ。……雪は、透矢さんが無事に戻って来てさえいただければ、それだけで十分幸せ
ですから」
いつものやり取りなんだけど、今日はどうしてか、その言葉が寝るまで心の片隅に引っ
かかって仕方なかった。
それから、また2週間ほど過ぎた。
天気は相変わらず雨が多くて洗濯物の乾きにくい時期だが、気分が憂鬱になることはな
かった。
花梨も雨ちゃんのお弁当に文句を言わなくなったことから考えても、雨ちゃんの料理の
腕前は確実に成長していっているのだろう。
そして和泉ちゃんの話によると、牧野さんの体調もだんだんよくなっていて、7月には
学園に復帰できるのではないか、ということだった。
そんな、7月を目前に控えた週末の日。
「おはよう、雪さん。……今日も雨だね~。雨降りだと洗濯物が乾かなくて大変じゃない
の?」
朝食の準備をしている雪さんに挨拶しながら席につく。
「おはようございます、透矢さん。そうですね、確かに洗濯物は乾きにくいです」
トントントンとリズミカルに包丁を扱いながら答える雪さん。
「でも、雪は雨ってそれほどイヤじゃありませんよ?」
「へえ、どうしてなの?」
「それは、雨は全てを覆い包み込んでくれる気がするからです。今日みたいなお天気の日
に、こうやって、腕を広げて雨の中で立ち尽くすんです」
雪さんは両腕を広げて目を閉じる。
「そして雨に打たれていると、いろいろなことが流れて、流されて、きれいになれるよう
な気がするんです……」
目を閉じて腕を広げてたたずんでいる雪さんは、なんだかいつもと違って見えて、まる
でどこか遠くにいってしまいそうな、近くにいるのに離れているような、そんな不安定な
感じがした。
「……え?」
雪さんの驚いた声。気が付けば、僕は雪さんを抱きしめていた。
「ダメだよ、雪さん? そんなこと言っちゃダメだよ。僕はここにいるから。僕が雪さん
を包んであげるよ」
ぎゅっ
「透矢さん……」
雪さんの頬が赤く染まる。
「……僕が、雪ちゃんを、守るから」
いつかどこかで口にしたそんな約束。
忘れないように、僕はもう一度約束をして。
雪さんの額にそっと口付けして、頭を優しく撫でた。
7月。先週までの雨はどこへ行ったのやら、まぶしい陽射しが青い空に輝いている。
7月になって、変わったことがふたつあった。
ひとつめは、牧野さんが学園に復帰した。
相変わらず僕のお弁当から卵焼きをおいしそうに食べている。もうすっかり体調はいい
みたいだ。
そしてふたつめ。雨ちゃんが、いなくなった。
お父さんの都合で突然転校が決まったらしい。
別れる当日、雨ちゃんは僕にお弁当を作ってきてくれていた。そのお弁当はとてもおい
しかったんだけど、彼女の質問には困らされた。
「雪ちゃんのお弁当と、どっちがおいしい?」
雨ちゃんは僕が困っている様子を見て、今までで1番楽しそうに笑った。
「また遊びに来るよ。この町、気に入っちゃったもん。花梨ちゃんも和泉ちゃんも雪ちゃ
んも、それに……透矢君もいるしね」
そう言い残して、雨ちゃんは行った。
はじめて会ったときから別れるときまで、楽しそうな笑顔が印象的な女の子だった。
ガラガラガラガラ
「おはようございま~す」
「暑い暑い暑いー」
玄関の扉が開く音。
「あ、那波ちゃんと……」
「花梨さん、ですね」
毎朝繰り返されているやり取り。
「じゃあ、行ってきます。雪さん」
「はい、いってらっしゃいませ。透矢さん」
お互い顔を見合わせて、笑い合う。
できるなら、この幸せな時間がずっとずっと続きますように。
おわり
あとがきのようなもの
みなさん、はじめまして。朝霧玲一と申します。
今回、はじめて同人誌というものに寄稿させていただいたわけですが、いかがでした
でしょうか?
発行時期が6月末~7月だろうと推測したことから、今回のネタが浮かんだわけですが。
しかし、出来上がってみれば雪さんの出番が少ないような……。
「水月」では1番好きなキャラは雪さんなのに、どうしてなんでしょうか。
どう考えてもオリジナルキャラに出番取られちゃったよね……。でもこの子がいないと、
この作品は全く意味がなくなってしまうので、みなさんに気に入っていただけると嬉しい
のですが。
あと、えちぃシーンも書きたかったんですが、ストーリーの展開上、入れられません
でした。
せっかくのチャンスだったので、少し心残りだったりします。
今回、お誘いいただきまして、どうもありがとうございました。あわさん。
そして、この作品を読んでいただいた方々、本当にありがとうございました~。
��004.5.30
2004/04/06
「花雪水月 -かせつすいげつ-」
第1回
いつからだろうか。いつも僕の側に雪さんがいるようになったのは。
ふわっと浮かんでいるような感覚。
夢と現実の狭間があるとすれば、こんな感じなのだろうか。
意識は目覚めたいと思っているのに、身体が起きてくれない。
そんな感じ。
窓の外が明るくなっているのが、感覚でわかる。
目を瞑っているのに。
早く起きないと、雪さんが来てしまうじゃないか。
だけど、どんなに起きたいと思っても、果たして人は自分の意志で目覚めることができ
るのだろうか。
外的要因や自然に目覚めたりするのはわかるけど、今の今まで、夢の中で起きたいと思っ
て起きたことなんて1度もないんだから。
たとえば怖い夢を見ている時、大抵の人は早く目が覚めたら、と思うだろう。
でも、できない。
その怖いことが自分の身に降りかかる寸前で、ようやく目が覚めたりするものだ。
だから、なるべく早く起きたい。
いつも起こしに来てくれる雪さんには申しわけないけど、彼女が来るよりも早く起きた
いと思ってしまうのだ。
ゆさゆさ。
あ、身体が揺さぶられている。きっと雪さんだ。
今日も雪さんに起こされちゃったな。
そんなことを思いながら、僕は自分の意識が急速に目覚めようとしているのを感じてい
た。
「おはようございます、透矢さん」
起きたばかりの僕の目に入ったのは、いつものメイド服に身を包んだ雪さんだった。
雪さん。姓は琴乃宮、名は雪。
小さい頃から、うちで一緒に暮らしている。
僕の父さんが、両親のいない雪さんを引き取ったからだ。
それ以来、雪さんは僕専属のメイドさん、ということになっている。
1度、僕と同い年なんだから恩返しのためにメイドなんてしなくてもいいよ、と言った
ことがある。
でも雪さんはにっこりと笑って、
「雪は、ここがいいんです」
と言ったのだ……。
「おはよう、雪さん。今日も起こしてくれてありがとう」
身体を起こしてから雪さんにいつもの挨拶をする。
「いえ、これが雪のお仕事ですから」
雪さんはにこり、と笑って窓の側へ歩いて行く。
雪さんがカララ…と窓を開くと、桜の花びらがふわりと1枚舞いこんで来た。
「もう、春なんですね」
花びらを拾って、雪さんが呟く。
もう4月になって数日が経っている。先週までは春には程遠いような気候だったが、こ
の数日ですっかりあたたかくなった。
数日前までつぼみだった桜も花開き、窓の外はいつのまにかすっかり春の装いをまとっ
ていた。
「ごちそうさまでした」
雪さんが作ってくれた朝食を残さず食べる。雪さんの料理は完璧で、尚且つ僕好みの味
付けになっているから、残したらバチが当たるというものだろう。
「はいどうぞ、透矢さん」
雪さんが渡してくれた食後のお茶を受け取り、コクリと一口。
「今日もおいしかったよ、雪さん」
食事の感想を伝えると、雪さんはいつもの笑顔で微笑んでくれた。
チラリと壁に掛けられた時計を見ると、7時30分。……そろそろかな。
「そろそろですね」
時計を見た僕の様子を見て、雪さんが呟く。それは……
ガラガラガラ~。
玄関の扉が開く音。そして、
「おはようございま~す」
「おはようー。早くしないと遅刻するわよー」
それは、2人の女の子がやってくる時間だった。
僕は湯のみを置いて立ち上がると、玄関に歩いて行く。
「おはよう。那波ちゃんに、花梨。今日も早いね」
「何言ってるのよ。今日から新学期でしょ。新学期早々遅刻しないように、牧野さんと迎
えに来てあげたんじゃない。ねー?」
「そうだよ~。透矢くんはしっかりしているようで意外にお寝坊さんなんだから。雪ちゃ
んも毎朝大変でしょう?」
花梨がいつものようにまくし立て、那波ちゃんが僕の後ろに付いていた雪さんに問い掛
ける。
雪さんは……にこにこと笑っていた。
あの、雪さん? ここはできれば否定して欲しいところなんだけど。
「そりゃどうも。じゃ、カバン持ってくるからちょっとだけ待ってて」
花梨に返事をして、僕は自分の部屋にカバンを取りに行った。
「それじゃ雪さん、行ってきます」
「はい、いってらっしゃいませ」
僕を送り出すために深々とお辞儀をする雪さん。いつもの光景なんだけど、慣れないも
のだなあ。
「雪ちゃん、また後で」
「またねー」
那波ちゃんと花梨も雪さんに挨拶して、僕らは学校へ向けて歩き始めた。
道の所々にある桜の木はどれも満開で、まさに春そのものの風景。自然と足取りも軽く
なるというものだ。
「今日はいいお天気だね~」
嬉しそうにしながら那波ちゃんが呟く。
牧野那波。僕の同級生。高校に入学してから知り合ったんだけど、今ではずっと昔から
の友だちのように仲良しになっている。
黒くてさらさらの長い髪はとってもきれいで、近くによるとすごくいいにおいがする。
女の子の間では、羨望の的になっているようだ。
いつもにこにこと笑っていて、彼女と知り合いになれて本当によかったと思っている。
その笑顔は、みんなの気持ちも幸せにしてくれる笑顔なんだから。
「そうだねー。先月までの寒気はどこへやら、って感じよね。でも春らしくていいじゃな
い」
元気良く、という表現がぴったりな歩き方で僕らの先頭を歩いて行く花梨。
宮代花梨。実家が宮代神社で、時々巫女のようなことをしている。
僕とは昔からの幼なじみ。だからなのか、彼女は僕には遠慮というものをしていないよ
うな気がする。それはそれでうれしかったりするのだが、もう少しだけ手加減をしてもら
えると尚よいのだけれど。
見上げた空にはきれいな青空。まったく申し分のない天気だ。
「そろそろお花見の季節だね~」
と呟くと、
「お花見、いいですね~」
と答える可愛らしい声。
声の方を振り向くと、マリアちゃんが大きな竹箒を持って、そこに立っていた。
気が付くと、いつの間にか教会まで来てしまっていた。いつになくぼんやりと歩いてい
たから全然気が付かなかった。
「おはようマリアちゃん。朝のおそうじかな?」
「おはようございます、透矢さん。今日はとってもいいお天気ですから」
箒を持ったまま、ぺこりと挨拶をするマリアちゃん。見ていてとっても気持ちのいい笑
顔だ。
「できればお天気じゃないときでもそうじしてくれると助かるんだけどねー」
「お、おねえちゃんっっ!」
教会の窓からひょっこりと出ているツインテールの少女。マリアちゃんとそっくりの顔
のその女の子は、マリアちゃんの双子の姉、アリスだ。
「あの、違うんですよ?いつもおそうじはしてるんですけど…あの…」
顔を真っ赤にしてあたふたと弁解するマリアちゃんは、なんだか可愛かった。
「お天気だから気持ちよくおそうじできるってことだよね?マリアちゃん」
「は、はい!そうですそうです」
那波ちゃんの言葉にコクコクとすごい勢いで頷くマリアちゃんだった。
「じゃあ、アリスがそうじすればいいのにー」
「今日はマリアの当番なんだからいいのよっ!」
花梨の言葉に激しく反論するアリス。このふたりはいつもこんな感じなので、ほってお
くと口げんか大会が勃発してしまうだろう。
「まあまあふたりとも。花梨、そろそろ行かないと遅刻しちゃうだろ」
「寝坊したキミに言われたくないけどね」
……矛先がこっちに向いたような気がした。
「まあいいわ。じゃ行きましょ。マリアちゃん、またねー」
マリアちゃんだけに手を振りながら歩き出す花梨。
「またね。マリアちゃん、アリスちゃん」
にこーと笑いながら那波ちゃん。
「それじゃあ、またね」
アリスとマリアちゃんのふたりに手を振りながら、僕も歩き出した。
「はい。みなさんお気をつけて~」
「事故に会うんじゃないわよー」
どっちがアリスのセリフで、どっちがマリアちゃんのセリフであるかは言うまでもない
だろう。
先程よりも多少早足で、僕らは歩いた。
せっかく家まで来てくれたふたりのためにも、新学期早々遅刻するわけにはいかなかっ
た。
つづく。
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